6月の花のみち、とても美しかったです。妹のアテンドで、母と一緒に楽しんできました*1
この演目、東京でもう一度観られるはずだったのになぁ…。という無念がスタートになってしまうのですが、自分の個人的な感想を書き残しておきます。ストーリーの展開に沿って、お役ごとに箇条書きでまとめました。
※初心者の感想です。普段はミッチーさんのベイベーをやっております。
※6/5の観劇の記憶(ムラ)+7/11配信(ムラ、序盤のみ)+9/4配信(東京)の記憶で書きました。
※お芝居のみの感想です。
初観劇の感想はこちら
- スーパースターという哀しみ〜フランツ・リスト(柚香光)
- 魂を救うペンの力〜マリー・ダグー伯爵夫人(星風まどか)
- 支配欲をソプラノに込めて〜ラプリュナレド伯爵夫人(音くり寿)
- 逆説的に女であるということ〜ジョルジュ・サンド(永久輝せあ)
- 承認欲求ごと抱きしめて〜フレデリック・ショパン(水美舞斗)
- 革命からラストシーンへ。「巡礼」が残したもの
スーパースターという哀しみ〜フランツ・リスト(柚香光)
- 冒頭の、ジョルジュとのシーンで度肝を抜かれたのが、やはり生ピアノですよ…!柚香光さんというトップスターは、この姿かたちを我が物にして、歌えて踊れて、しかもピアノまで弾けるってシンプルに何事??リスト自身の手が大きかったことはよく知られていますが、柚香さんの美しく白く長い指には「説得力しかない」。7/11の回を配信で観た時は、手元がアップになって抜かれた瞬間、母と大歓喜しておりました*2。
- うろ覚えにはなってしまうのですが、序盤、マリーと出会うまでのフランツの鬼気迫る雰囲気には、ムラで観たときより限界みを感じました。御髪も乱れがちで、目の下にクマも感じられて…(雰囲気ね)。
- エンタメに触れてマイハートが爆発したのが、S3のサロンのシーンです。初見時、この時点でステージには「音が鳴るガチのピアノ」と、「もう1個の鳴らないピアノ」があるのだなということは(ショパンの登場シーンにより)把握していました。いやでもさ、そのもう1個が、光るとは思わんやん????ゲーミングピアノが出てくるとは思わんやん???そうはならんやろ????
- この記事はミッチーのベイベーが書いているので偏っていることを許してほしいのですが、6月、宝塚大劇場の座席で喜びに肩を震わせながら、私この感じ、知ってる、ってなったんです。スーパースターがスーパースター然として振る舞うということを。
- ディスコ調の音楽が響きカラフルな照明が乱舞する中、フランツの一挙手一投足に興奮し、ジュリセンよろしく扇子を降って踊り狂う貴婦人たち。これ知ってる、ミッチーでいうところのShinin' Starやん…*3*4
- しかしその輝きこそが、フランツにとっての苦悩の根源だったのでした。唯一無二の「トップスター」である柚香光さんが、実際にスターとして人気を博したフランツ・リストを演じるというメタ構造に震えます…。
魂を救うペンの力〜マリー・ダグー伯爵夫人(星風まどか)
- 仲間と一緒にいながらも苦しみ、「理解」への狂おしいまでの希求を見せていたフランツ。そんな彼を救ったのが、男性名で新聞にルポを寄せていたマリーでした。「アルルカン(=道化)の哀しみ」という辛辣な評言。「どうしてわかるんだ…彼女には…」
- 「わたくしの言葉できっと傷つけてしまったのね」「僕自身も気づかずにいた魂の苦しみが、どうしてあなたには見えたのですか」。フランツが欲しかったのは上っ面の理解や共感ではなかった。あの夜ペンを手にしたマリーが見出したのは、フランツの半生が背負っていた本質的な哀しみでした。
- フランツを評する文章に自分を重ねてしまった、と悔い改めるマリー。それでも、その澄んだ批評眼がそのフランツを救い、2人の魂を結びつけた。批評こそが救済になったのだと思います。
- 私が過去に見た星風まどかさんのお役は、超絶にファム・ファタールなエバという女性でした(哀しみのコルドバ)。今回のマリーというお役で素敵だなぁと思ったところは、聡明さ、そして行動力が光るところです。運命を狂わすという意味では確かにファム・ファタール性を帯びてはいますが、女性としての魅力にとどまらない、知性や思慮深さの表出がそれはそれは見事でした。
- 「だったら一緒に出ていきましょう」。このシーンでマリーが「居場所がない」という言葉を繰り返していたのは、この突然の出会いからの逃避行に説得力をもたせるためだったのだと思います。
- ちょっと飛躍するかもしれないけれど、批評は芸術にとって不可欠である、そんなメッセージを感じました。
支配欲をソプラノに込めて〜ラプリュナレド伯爵夫人(音くり寿)
- 兎にも角にも、歌、上手すぎんか。
- パトロン、つまり芸術家にとって絶対的な存在であることを圧倒的な歌唱力で体現する音くり寿さま…
- 前回拝見したのは、前述の「哀しみのコルドバ」の、アンフェリータ嬢だったのですよ…可憐で思いやりがある少女の演技が印象的で、「でも、結婚したかったなぁ…」には泣かされたものです。…ねえ、同じ人???
- 「♪お前などもういなくても構わない」…S7のダグー伯爵(飛龍つかさ)との激おこデュエットがだいっっすきです!
- あえて表情筋を駆使しない音くり寿さんの歌唱。「♪もう二度と取り戻せはしない〜」と真顔で歌い終えた後にキュッ!と口角を上げて不敵に微笑む演技が最高です。
- 肉体的にも精神的にもフランツを支配しているようで支配されている、魅力に溺れながら失うことを恐れる焦燥感がだばだばと溢れてきて、本当に堂々たる存在感でした。
逆説的に女であるということ〜ジョルジュ・サンド(永久輝せあ)
- 初見のとき、私はあえてミリしらで劇場に乗り込んだのですが、ジョルジュを誰がやってるかとかあんまり考えていなかった…。めちゃくちゃ美人がおると思ったら永久輝せあさんやった…(←お前どんだけ…)
- 小気味よい男装に赤いリップが映えて、娘役の誰よりも、紅をさした口元が印象的でした。つまり逆説的にめちゃくちゃ女だった。
- えーと男役さんが男装の女流作家を演じているということはえーと…(混乱)
- 印象的だったのはやはり、ジュネーヴにフランツを訪ねてきたところ。パリに戻るよう説得しながら、「♪そんなものなのあなたの野心は」と追いすがるように歌うジョルジュ。このフレーズで芯のある高音を響かせていましたが、この最高音はD(レ)。男役さんとしてはすごく高いのでは?と思います。
- ジョルジュは、男女の垣根を超えてフランツと野心を分かち合ってきた戦友でした。その自覚からくる“余裕”こそが彼女の身上でしたが、このシーンでは1人の女性としての必死さがすごかった…。
- ジョルジュは、フランツに自分を見てほしかったんじゃなくて、一緒に同じ方向を見てほしかったんだと思いました。フランツの心が自分から離れることよりも、彼が野心を失うことのほうが、ジョルジュにとっては耐え難かったのかもしれません。
承認欲求ごと抱きしめて〜フレデリック・ショパン(水美舞斗)
- ショパンが若くして亡くなってしまうということは知っていたから、死の床に臥すショパンを見ても「そうだよね…」と受け止めることができていました。
- だから6月にムラで観た展開が決して唐突だったとは思わないのですが、今日の千秋楽では、明らかに、最初の集まりのシーンでショパンが仲間に背を向けて咳き込む演技が足されていました(※どの段階で足されたかはわからないけど)。つまり明確に死へのフラグが立てられたのだなぁと。
- 慈愛の込もったマイティさんの歌唱は低音の木管楽器のようでした…*5。
- 死の間際、夢と現実のあわいで再会したリストとショパン。ここで私は、ショパンがリストの承認欲求をまるっと認めてあげることにすごく胸を打たれました。「でも欲しかったんだろう。欲しかったものを手に入れるなんて、立派なもんだ」「認めたな。それでいい…」。痛々しいまでに栄光を求め、いくつもの勲章をぶら下げた友を、嘆いてみせることだってできたはず。でもそうすることはせず、よかったじゃないかと言ってあげられる。それが、ショパンの愛と包容力…。
- 2022年の今、個人的には他人の承認欲求を叩きすぎる流れってあんまり好きじゃないのですけど、だから、親友が囚われ苦しんでいる承認欲求をまずは受け止めて、その上で「いったいいつまで他人のものさしで自分を測る」と強く鼓舞する愛情に、めちゃくちゃ感動したのです。
- 臨終のシーン。ここでノクターンは反則です…(滂沱)。千秋楽の配信では、ヴェールに陰るジョルジュの横顔だけを映し続けるカメラワークが印象的でした。
- そしてラストシーン。最後にもう一度、あの慈しみに満ちた笑顔に出会うことができ、落涙を禁じ得ませんでした。「♪僕らは天の音楽 喜びの御使い」という歌詞が脳裏にリフレインして、フレデリック・ショパン、なんというお役だろうと思いました。
革命からラストシーンへ。「巡礼」が残したもの
- 駆け落ち後の「巡礼の日々」。淡い緑に抱かれたジュネーヴの森で、追いかけっこに興じるフランツとマリー。初見のときは、なんでこんなに徹頭徹尾真っ白な服を着ているんだ??と思ったんですけど*6、今日改めて思ったのは、これが「ただのマリーとただのフランツ」の表象だったのだなぁということです。「君が、僕を救ってくれたんだ」「純粋なものだけが残された」…パリの汚れをすっかり落として、清らかな精神を取り戻した2人を表していたのですね。
- だけど、その後はすれ違ってしまう2人。マリーが階級社会に疑念をもったその瞬間、フランツがハンガリーで爵位を得るという皮肉が辛かったです。
- 後半は1848年の革命*7が描かれ、個人の戦いから構造の戦いへ。貴族の身分でありながら革命に身を投じるマリーが超かっこいい。このシーンに取り入れられたヒップホップはまさに「抵抗」の象徴なので、演出のセンスにしびれました。
- そうしてフランツがマリーと再会できたのは、前述の、精神世界みたいな場所でした。誰もいない森の中で「じいやと姫」になりきる遊び、曖昧模糊とした精神世界での語らい。史実では2人は「巡礼」の期間に3人の子を設け、一定の期間を過ごしていますが、この作品においては、フランツとマリーは“社会”で共にあることはできなかったのです。
- 時が経ち、修道院のベンチでいたわりあうように、ゆっくりと言葉を紡ぐ老いた2人。途中で道は分かれてしまったけれど、魂は深く響き合っていた…。
- 初見のとき、心のどこかで名曲「愛の夢」の登場を待ち侘びている自分がいました。だから、ここで満を持して「愛の夢」のフレーズが響いたカタルシスで、めちゃくちゃ泣きました(+そこへショパンの微笑みが重なってもうダメだった)。
- フランツとマリーは、社会に根を下ろして一緒に生きることができなかった。でも共に過ごした時間は、決して単なる逃避行じゃなかった。ラストシーンには「未来」を示唆する子供たちも登場し、切なさの中に希望が光るエンディングでした。
- 理解されることを拒みながら、それでも理解されることを求め続けたフランツ。物語を通して振り返れば、ジョルジュも、フレデリックも、そしてマリーも、それぞれの立場から「ちゃんと」フランツを理解して、愛していたのだなと思います。
*
パリの芸術家たちの情熱が、舞台人としての生徒さんたちの情熱と共鳴して、絶望的に長い中止をくらったあとの「最後の最後の千秋楽」に、なんともいえない切なさを残しました*8。私の大好きな激おこデュエットのお2人、これで退団してしまわれるなんて…。
革命のシーンで、「詩や文学が腹を満たしてくれるのか」という台詞がありました。
詩や文学、絵画や音楽、そして舞台。長引くコロナ禍で軽んじられがちな「芸術」の力を、「エンタメ」の起こす奇跡を、花組さんのステージは確かに信じさせてくれました。
千秋楽、誠におめでとうございました!
*1:ミッチーの神戸公演のあと22時に宝塚について翌日のマチネを観ました!
*2:実家。空港に向かうギリギリまで一緒に観た
*3:アルバム「FUNKASIA」(2007)収録、ダンス☆マン作曲。ミッチーのワンマンショーにおける超定番のディスコナンバーです。Shinin' Star - YouTube
*4:しかし今日、よりによって楽しみにしていたこのシーンで配信が2分ほど切れてしまい(※たぶん家の環境のせい)、マジで心が折れました…。
*6:この時点でマリーと伯爵の婚姻関係がどうなっているかここではわからなかったから単に新婚って受け取っていいのかもわからず
*7:教科書的には二月革命?で合ってる??←それより年号を100年間違えてた。出直して!
*8:めちゃくちゃ念のためですけど誰も悪くなくて、悪いのは1億%コロナです
*9:今年観る予定だった2回とも中止になってしまったのです