
だいぶ時間が経ってしまいましたが、続きです!
小説「坊っちゃん」との関係を比較したPart1に続き、Part2では大千秋楽の時に作成したタイムライン(年表)をベースに、夏目漱石にまつわる史実や『吾輩は猫である』との比較をしてみたいと思います。
本記事は、これまでにアップした手書きメモや画像なども交えつつPart1よりはなるべくライトな感じでまとめていきますので、「ミュージカルに出てきたアレって何だったんだろう?」「史実とどれくらい違うのかな?」と思ったことがある方に、少しでも楽しんでいただければ幸いです。ちょっと長いケド…!
- はじめに〜漱石と坊っちゃんのタイムライン
- 『吾輩は猫である』との比較〜千駄木パラレルワールドへようこそ
- 同業者目線で見る「ホトトギス」4月号の進行
- 悩み事の“天ぷらそば”、『♪水底の歌』について
- 漱石→子規のクソデカ感情は本当にあった?
- 『♪アイ・ラブ・坊っちゃん』〜登世と鏡子の音楽的な統合
- 終わりに〜 そして駆け抜けた10年間
はじめに〜漱石と坊っちゃんのタイムライン
二都物語のときに作った「タイムライン」と同様の形式です。

(ブログでは画質が劣化してしまうため、高解像度のものはXの投稿をご覧ください)
字がちっちゃいですが、とりあえず黄色いところを見てください。坊っちゃんの生きる時間と漱石の生きる時間が重なってることだけとりあえず把握してもらえると嬉しいです。劇中に流れる時間は、漱石が坊っちゃんを書き始めてから書き終えるまでの、明治39年3月15日頃〜27日頃。実はほんの半月ほどに起こった出来事でした。
『吾輩は猫である』との比較〜千駄木パラレルワールドへようこそ
『吾輩は猫である』は劇中の時点も連載中で、ホトトギスの「坊っちゃん」掲載号には『猫』の続きが載っています。猫の主人である珍野苦沙弥(ちんの・くしゃみ)は漱石自身がモデルであり、この作品には現実のパロディという性格があります。そのため、「アイ・ラブ・坊っちゃん」の現実パートと『猫』の関係は、切っても切れないものとなっています。以下、具体的に見ていきましょう。
「猫の家」はどこにある?
当時の夏目家が暮らしていたのは、「本郷駒込千駄木五十七番地」にあった借家。そこへどこからともなく子猫が入り込んできて、追い出されようとしていたところ漱石のとりなしで飼われるようになりました。これが『吾輩は猫である』の着想につながり、この家は今でも、「猫の家」と呼ばれています。
それから猫は大威張りで相変わらずおはちの上にのぼつたり、腹這ひになつて夏目が朝新聞をよんでゐると、のそのそ歩ひて行つては丁度背中の真中に乗つてすまして居ります。
夏目鏡子述、松岡譲筆録『漱石の思ひ出』P.142
か、かわいい…。
ちなみに、私たちはこの家のことをよく知っています。なぜなら、「アイ・ラブ・坊っちゃん」のセットは、実在の「猫の家」をほぼそのまま再現したものだったからです。上記に引用した『漱石の思ひ出』に、見取り図が載っていたんですよね。声出たわ。

森鴎外と夏目漱石が仮寓したこの家は、現在は愛知県犬山市の明治村に移築されています。ホームページで詳細な写真を観ることができます。
7月に調べ物をしていて写真を見た感想→この家、知ってる…。
私「この家(劇場で)めっちゃ見たことあるな」
— くいな(亜種) (@purplekuina076) 2026年7月5日
※愛知県の明治村に移築されているよ🏠https://t.co/xd60UjaDZV
少年はどこからやってきた?
現在、この跡地(東京都文京区向丘)は日本医科大学の敷地となっており、「夏目漱石旧居跡(猫の家)」として整備されています。劇中ではボールが飛び込んでくるくだりで「郁文館中学」が裏手にあることが描かれますが、Part1でも触れた通り、今も同名の中高一貫校が現存しています。
現実のパロディである『猫』には、この学校をもじった「落雲館中学」の生徒たちがボールを投げ込んだり敷地に侵入したりして苦沙弥先生を悩ませる話が出てきます(第8章)。このあたりは劇中と同じようなやり取りですね。
「いえ泥棒ではありません。落雲館の生徒です」
(中略)
「にせものだろう。落雲館の生徒なら何故むやみに侵入した」
「ボールが飛び込んだものですから」
「なぜボールを飛び込ました」
「つい飛び込んだんです」
「怪(け)しからん奴だ」
夏目漱石『吾輩は猫である』(新潮文庫/1961[改版2003])P.325
『猫』では、ボールが飛び込んでくる理由についてはちょっと陰謀論っぽい雰囲気をまとっていますが*1、ミュージカルでは、「少年」は漱石の心を映す存在として印象的に登場しています。彼の名前については重要なポイントなので後述します。
雪江は実在した人物なの?
結論からいうと、雪江という名前の姪は史実には存在しません*2。しかし、『猫』には苦沙弥先生の姪としてちゃんと出てきます。ミュージカルの雪江はしとやかな女学生でしたが、『猫』の雪江は口が達者でだいぶキャラが違います。容姿についても、猫の語りによれば「学校の生徒だそうだが、折々日曜にやって来て、よく叔父さんと喧嘩をして帰って行くという雪江とか云う奇麗な名の御嬢さんである。最も顔は名前程でもない、一寸表へ出て一二町あるけば必ず逢える人相である」と雑に紹介されています。おい猫。
ミュージカルとの関連を考えるならば、「坊っちゃん」と同時掲載された第10章に登場することがポイントでしょうか。雪江とマドンナは同じキャストが演じています(演:彩みちる)。劇中では久しぶりに会った雪江の姿を見て漱石が「マドンナ!?」と驚くシーンがあるので、「坊っちゃん」の登場人物である「マドンナ」のインスピレーションにつながったように設計されているのだと思います。
『♪アイ・アム・ア・坊っちゃん』はなぜそんなタイトルなの?
さて、本作の冒頭にはこの家の縁側で、漱石が虚子に「坊っちゃん」の冒頭を語って聞かせるシーンがあります。「♪アイ・アム・ア・坊っちゃん」は、ここでお目見えする坊っちゃん(演:三浦宏規)の魅力が炸裂する、明るくパワフルなナンバーです。ところで、このナンバーはどうしてこのような変わった名前なのでしょうか。実はここにも『猫』が関係しています。漱石のデビュー作である『吾輩は猫である』は、国内の好評を反映し、単行本化から1年足らずで英語に翻訳されたそうです。そのタイトルが“I am a cat”なんですよね*3。これは上演期間中には気づけなくて…漱石山房記念館に行って展示物のキャプションで気づいたときはこれまた声が出そうになりました。気づきたかった!!
このナンバーが「名前は…!」「まだ、ないッ😤」の掛け合いという、明らかに『猫』を踏まえた終わり方をしているのは、そういう理由からだったんですね。しかし当然ながら、坊っちゃんに、本当は名前がないわけがない。一人称小説のレトリックの一貫で意図的に明かされなかっただけであり、本当に名前を名付けられなかった猫とは事情が異なります。なので、M1である「アイ・アム・ア・坊っちゃん」では、タイトルや最後のかけあいなどから、ミュージカルと『猫』とのリンクを明確に示唆しようとしていたのだと思います。
ミュージカル「アイ・ラブ・坊っちゃん」と小説『吾輩は猫である』の関係は、一言でいえば、めっちゃハイコンテクスト。この“通”な仕掛けは、史実や小説について真剣に考えようとすると、劇中には『猫』を通過した出来事とそうでないことが混ざるため、簡単に混乱します。「アイ・ラブ・坊っちゃん」の世界とは、明治39年のリアルな史実とも『猫』の世界線とも微妙に違う、千駄木パラレルワールドとして受容するのが一番いいかなと思います。

同業者目線で見る「ホトトギス」4月号の進行
「坊っちゃん」は「ホトトギス」第9巻7号の巻末付録として一挙掲載されました。私は初日に見たとき、高浜虚子(演:大音智海)の「4月号」締め切りについての「3月末です」というセリフにちょっとびっくりしました。号によって日付は後ろに遅れることもあったようですが、当該の第9巻7号は明治39年4月1日発行でした。そんなにすぐ出るか???
しかし、後世の研究によればこれは本当に史実通りだったことがわかります(以後、江藤淳『漱石とその時代 第三部』をおもに参照しています)。
何月何日に書き上げて何月何日に出たか
漱石が坊っちゃんを書いていたのは、江藤淳の研究によれば明治39年3月15日頃〜27日頃とされています(手紙などの記録や執筆ペースから同定されたもの)。前述の「アイ・アム・ア・坊っちゃん」の導入にあたるシーンは、虚子がホトトギスの3月号の刷り上がりを持ってきていることから、発行日からみて3月10日頃だと考えられます(ただし虚子が漱石を訪ねた記録は史実からは確認できず)。その後、スピーディーに書き進め、3月23日付の虚子の手紙には「もう二つ三つ書けば千秋楽になります」と進捗を報告しており、江藤によればこれはうらなり君の送別会の場面とのこと。その後、27日に完成していたと推定されています。つまり、漱石はおよそ12日間というなかなかのハイスピードで、ワーッと書いていたんですね。
漱石は脱稿後、虚子宛の4月1日付の手紙で「雑誌がおくれるのはどう考えへても気になる三十一日の晩位に四方へ廻して一日から売りたかつたですな」「校正は御骨が折れましたらう多謝々々其上傑作なら申し分はない位の多謝に候」と書いています。つまり、多少は発行が遅れたけれども、当時の雑誌は印刷所に入れてワーッと校正して印刷したらすぐ出来る感じだったのだな、と思いました*4。
原稿料はいくらだったの?
前述の漱石と虚子のやり取りでもう1つ気になったのが「稿料なら上げさせていただきます」でした。実際、「ホトトギス」の原稿料はいくらくらいだったのでしょうか?
小説家デビューする前の夏目家は、実は貧乏でとても苦労していました。それが原稿料や印税が入るようになったことで少しずつ安定するようになり、鏡子も「それからといふものは、以前のやうな家計の不如意にはまづ会はなかつたといつてもいいでありませう。」と述懐しています。具体的な原稿料について、鏡子は「『ホトトギス』が始めは多くて一枚五十銭位だつたのが、後では一円に上がりました」と記憶していました。一方、漱石は4月30日付の虚子宛の手紙に「ホトトギス」4月号の原稿料の領収証を記しており、そこでは『猫』10章と「坊っちゃん」で合計186円50銭とされています。これについては江藤が1頁1円と換算しているため*5鏡子の記憶と一致しますが、「『ホトゝギス』は、このとき依然として一頁一円の割で原稿料を支払っていたことが明らかである」と述べているので、劇中にあったように「坊っちゃん」のタイミングで値上がりしたというわけではなさそうです。ちなみに漱石の好物であった牛肉は、翌年の明治40年の時点で9.5銭/100gだったそうです(文献4)。明治42年にはちょうど10銭/gで、だいたい原稿料1頁分で牛肉1キロを買えるような計算ですね。♪大きな〜お鍋いっぱい〜坊っちゃんの〜大好きな〜すき焼きつく〜る〜
「ホトトギス」は猫の評判で部数をのばし、漱石も「ホトトギス」での活躍を足がかりに、職業作家への思いを募らせていきます。その思いは、「坊っちゃん」執筆の半年ほど前に虚子へ宛てた手紙にも、このような形で現れていました。
考へると己はこんな事をして死ぬ筈ではないと思ひ出し候。(中略)小生は生涯のうちに自分で満足の出来る作品が二三篇でも出来ればあとはどうでもよいと云ふ寡慾な男に候処。(中略)とにかくやめたきは教師、やりたきは創作。創作さへ出来れば夫丈で天に対しても人に対しても義理は立つと存候。自己に対しては無論の事に候。
漱石がすべての教職を辞して作家になったのは明治40年の春でした。「坊っちゃん」はおよそ1年前に、その流れを加速させた作品だったと言えるでしょう。
悩み事の“天ぷらそば”、『♪水底の歌』について
覚えていますか? 漱石がさまざまな悩みにうなされているナンバー、『♪水底の歌』ってありましたよね。謎めいた文語調の歌詞にコンテンポラリーな振り付けもあいまって、幻想的かつ抽象度の高いナンバーでした。
実はこのナンバーには超・元ネタが存在します。それは、夏目漱石本人が書いた新体詩でした。寺田寅彦へ宛てたハガキの端書きとして記されていたものです。X投稿用に画像化したものがあるのでこちらをご覧ください👇️

ミュージカルナンバー『♪水底の歌』は、明治37年に漱石が書いたこの新体詩をベースに、当時の悩み事を全部のせにして作られたものでした。天ぷらそばに例えるなら、「水底の感」=そば、他の悩み事=天ぷら🍤です。以下、その要素を1つずつみていきましょう。
教え子・藤村操の「巌頭之感」
まず、この新体詩は「藤村操」を思う女性の目線で作られたとされています。藤村操(ふじむら・みさお)は、明治36年5月に「巌頭之感(がんとうのかん)」という遺書を残して華厳の滝に身を投げた一高の生徒でした。この事件は「哲学的自殺」として大きなセンセーションを巻き起こしましたが、漱石は背景に恋愛があると見ていました。この新体詩が女性の目線*6で詠まれているのはそのためです。意味を読み解くと、清らかな水の中で永遠にふたりきりで暮らすという、ロマンティックで耽美的な趣があります。
漱石は時間の少し前に、英語の授業で訳読をあてて答えられなかった藤村を叱り、その数日後も同様の理由で叱責しています。
何日かあとに、また夏目が藤村にあてた。その時も藤村は下読みをして来なかった。夏目は「勉強をする気がないなら、もうこの教室に出なくてもよい」と言って叱った。
伊藤整『日本文壇史 7 硯友社の時代終る』P.145
藤村の死が知らされたのはその数日後のことでした。漱石は英語の時間に教壇に登るなり、最前列の生徒に小さな声で訪ねたといいます。
「君、藤村はどうして死んだのだい?」
「先生、心配ありません、大丈夫です」とその生徒が答えた。
「心配ないことがあるものか。死んだんぢやないか」と夏目が言った。夏目は数日前に教室で叱ったことが藤村の死の原因になっているような気がしたのである。
伊藤整『日本文壇史 7 硯友社の時代終る』P.148
ミュージカルを見ていた人ならピンときますよね。このように、新体詩「水底の感」がミュージカルナンバー『♪水底の歌』の下敷きとなったのは、夏目が責任を感じて苦悩していたという説に由来しているのです。そしてこれは、前述の「郁文館中学の生徒」の名前が「藤村みちお」という名前だったことにも関係します。同じ年の頃でよく似た名前をもつこの少年は、亡くなった教え子のことを嫌でも思い出させる存在でした。劇中で、彼に関連して鏡子が藤村操を話題に出したとき、漱石が癇癪を起こしたのもうなずけます。鏡子は、ナチュラルに地雷を踏んでしまったというわけです。
ロンドン留学からの帰朝命令
では、盛り付けられていた具(天ぷら)を見ていきます。
まず1つ目は、ロンドン留学の話です🍤。夏目漱石は、文部省の命を受け、明治33年からロンドンに留学していました。しかし任期中に神経衰弱を起こし、その様子は他の留学生たちの間で“夏目狂セリ”と噂になってしまいます。そのうち1人が文部省に一報を入れたところ、「夏目ヲ保護シテ帰京セラルベシ」という命令が発せられてしまいました(明治35年10月)。この言葉は「水底の歌」に登場しています。上手付近で官僚と思しき人物(演:今村洋一)が言っていましたよね。首がカクッ!ってなるところ怖かったですね!
結局、漱石は明治35年12月5日にロンドンから船に乗り、翌年1月23日に神戸港を経て東京に帰ってきました。劇中の時期は帰国から約3年後にあたりますが、貧乏もあいまって漱石はこの「病気」に悩まされていた時期でした。
人気教師の後任としての苦悩
天ぷら2つ目🍤「ハーン先生が亡くなられました」
漱石は、帰国後は一高(第一高等学校)と文科大学(東京帝国大学英文学科)に職を得ることになりました。この文科大学における英語講師のポストは、あのラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の後任でした。高名な外国人講師であったハーンは学生たちに人気があり、最終講義の際は「留任運動」も起こったほど。ハーンは大学の方針で去ることになったため、決して漱石が“追い出した”わけではなかったのですが、ハーンのものとは全く異なる講義を行う漱石は、帝大生たちの強い反発を受けてしまいます。
ダブルカラーの襟をつけて髭を固めた、いかにも「留学帰りのハイカラ*7教師」な漱石の風貌も反感を買いやすく、同じく英語の講義をもった一高ではこんな出来事がありました。
其頃(そのころ)或る日学校からかへつて来て、
「今日教室へ入ると、黒板に高いダブル・カラーをつけて、頭をぐつと高くそらしたおれの顔が描ひてあつたよ。」
と笑ひながら申しますから、
「貴方どうなさいました。」
と訪ねますと、
「仕方がないからだまつて消しておいたよ。」
と言って居りました。其頃の夏目は所謂ハイカラで、尖(さき)の細い沓(くつ)をはいて、爪先ですつすつと廊下を気取つて歩いてゐたものだとかいふことです。
夏目鏡子述、松岡譲筆録『漱石の思ひ出』P.114
このくだりもミュージカルに出てきましたね。
ラフカディオ・ハーンの話に戻ると、『♪水底の歌』の中には「ハーン先生が亡くなられました」というセリフがあり、これはハーンが辞職してから1年半後のことですが(狭心症の発作による)、もちろん漱石にはなんの責任もありません。しかしこの曲では、漱石の「自分が追い出したせいだ」という罪悪感を示唆しているのだと思います。
鏡子の自殺未遂
天ぷら3つ目、最後です🍤
これは少し時代が遡って、明治31年5月下旬*8、ロンドン留学前に熊本五高に赴任していたときの話です。当時22歳で妊娠中だった鏡子がつわりから「ヒステリー」を起こして白川に投身自殺をはかるという事件が起きています。大事には至らなかったものの、実生活をモデルにしているといわれる小説『道草』には、その後しばらく、主人公が自分の帯と妻の帯を細い紐で繋いで寝ていたというエピソードが出てきます。
『♪水底の歌』では、「今度はあなたの奥さんかも」というセリフが漱石を苦しめます。藤村操の自死は、熊本時代の事件を思い出させるには十分でした。鏡子が“また”そんなことをしてしまったら…という恐怖が描かれているのだと思います。
整理すると、ミュージカルナンバー『♪水底の歌』は、
新体詩「水底の感」=そば
に、
明治31年〜37年頃に漱石が抱えていた悩み事=天ぷら
をたくさんトッピングして作られた天ぷらそばということです🍤
…Yes, ハイコンテクスト!!
漱石→子規のクソデカ感情は本当にあった?
大事なポイントなので頑張って調べてみたのですが、結論としては、そこまではないのかも?という感じになりました。クライマックスで漱石が吐露したような、崇拝と嫉妬が入り混じったようなコンプレックスのような感情については、今のところそれらしい根拠を見つけられませんでした。それでも、彼らが固い友情で結ばれていたのは本当です。具体的な作品や書簡について、ここで少しだけ紹介したいと思います。
劇中に登場した子規の俳句
正岡子規の俳句は、記憶違いでなければ以下の3句が劇中に使用されていたと思います。
①卯の花の散るまで泣くか子規
明治22年5月9日、子規が初めて喀血したときのもので、この翌日に喀血(肺病)を暗示する「ほととぎす(子規・時鳥など)」を読み込んだ句を多数作り、以降「子規」と号するようになります。この数日後、漱石は友人といっしょに病床を見舞い、帰宅後に手紙を投函しました(これが子規宛の最初の手紙)。その手紙に漱石は「帰ろふと泣かずに笑へ時鳥(ほととぎす)」という俳句を記し、子規を励ましています。このとき彼らは22歳。第一高等中学校の同級生でした。
②行く我にとゞまる汝に秋二つ
ミュージカルの終盤、坊っちゃんと共に張り込みをしていた山嵐は、明らかに“子規として”坊っちゃんに来歴を語ります。このときの「小説も書いた」「従軍記者になった」「肺も病んだ」はタイムライン(表)のとおり明治25〜28年の出来事に由来します。明治28年夏、子規は従軍帰りの船上で喀血し、その後松山の漱石の下宿でしばらく療養していました。この俳句は、10月になって病状が落ち着いた子規が帰京することになり、漱石との別れを惜しんで詠んだものです。意味は「出かけて行く僕と、とどまる君は、それぞれに違う秋を過ごすのだね」というような感じ(私訳です)。
「秋」が「二つ」になる、つまりそれは「一つの夏」を一緒に過ごしたよね、ということでもあります。エモいですよね…。
③柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺
誰もが知るこの俳句は、子規がその道中に奈良に立ち寄った際に詠まれたと言われています。当初から「大傑作だ!!」とは扱われなかったようで、評価が定着したのは後世のようです。だから、漱石がこの句に嫉妬するほど感動したのかは不明。しかも、発表の2か月前に、漱石は同じ新聞に「鐘つけば銀杏散るなり建長寺」というよく似た句を発表しているのです(芋くへば、ではない。笑)。俳人の坪内稔典は著書の中で、「私見だが」と前置きした上で「漱石のこの句が子規の頭のどこかにあり、この句が媒介になって『柿くへば』が出来たと思われる」と述べています(文献10,P.122)。真偽を確かめることはできませんが、本当にそうだとしたら興味深いことですよね。ちなみに漱石は、出発するときに子規にお金を貸したものの、奈良から「(意訳)借りたお金はここ(奈良)で使い果たしてしまったよ」と書いた手紙が届いたことを後に書いています。坪内はこのエピソードに触れ、「『柿くへば』の句の誕生はいろいろと漱石の友情に支えられていたようだ」とまとめています。
たぶんこの句は日本一有名な俳句のひとつであり、もちろん子規の代表作でもあります。ミュージカルでは、脚本上、生前の人物像を描きにくかった子規について、漱石が嫉妬したくなるほどすごいクリエーターであったと印象づける意図でこのように使用されたのではないかと思っています。
子規の死に目に会えなかった漱石
明治33年夏、留学準備のために上京した漱石は、再び大喀血をして伏せっていた子規を見舞いました*9。彼らが直接会えたのは、このときが最後でした。
その後、漱石はロンドンから子規・虚子宛ての手紙でロンドンの様子をくわしく描写し、病床の子規を慰めました(「倫敦消息」として「ホトトギス」に掲載)。しかし、子規の病状はどんどん悪くなっていきます。明治34年11月、子規は漱石宛てに「僕ハモー駄目ニナツテシマツタ(僕はもう駄目になってしまった)」という書き出しの手紙で、「僕ハトテモ君に再会スルコトハ出来ヌト思ウ(僕はとても君に再会することはできないだろう)」という悲しみを吐露しました*10。そしてこれが本当に、子規からの最後の手紙になりました。
明治35年9月18日、子規は根岸庵で亡くなりました。2か月以上たってから訃報に接した漱石は、12月1日に虚子宛ての手紙に「小生出発の当時より、生きて面会致すことは到底叶ひ申すまじくと存候(僕は出発したときから、生きて会うことは到底叶わないだろうと思っていました)」と記したうえで、子規が楽しみにしていた「倫敦通信」をもっとマメに書けばよかったという後悔を述べています。「手向くべき線香もなくて暮の秋」等、追悼の俳句を添えてロンドンから投函。その数日後に自身も帰国の途につきました。
書きかけのまま残された追悼文
1か月以上の船旅のあと、漱石は帰京した3日後に子規の墓参りに行き、それを題材に子規の追悼文を書いています(文献9,P.423 「付録2」として掲載)。「水の泡に消えぬものありて逝ける汝と留まる我とを繋ぐ」という書き出しは、偶然かもしれませんが、子規が漱石との別れを惜しんだ俳句《行く我にとゞまる汝に秋二つ》と逆の構造を持っています。
実は、この追悼文は書き終えることのないまま後世に残されたものです*11。
当時の埋葬は火葬ではなく土葬が一般的で、子規は自らの希望もあり土葬されました。「死の影は静なれども土臭し。今汝の影定かならず亦土臭し」の「土」は、そのことを表しています。「土臭し」のリフレインは、その死を実感できない漱石の困惑を表しているようです。そして、墓の周りを「花をも捧げず水をも手向けず」3周ぐるぐると回ってそのまま去ったという記述ののち、唐突に終わっています。まるで放り出されるように終わるこの文章は、湿った土の匂いとともに、漱石の生々しい悲しみの中に取り残されるような読後感があります。
以上より、彼らの間にあった友情やリスペクト、そして別れの悲しみは、劇中に引用された俳句のほか、書簡や文章などの資料などから感じ取ることができると言えます。ミュージカルにおけるクソデカ感情は、ただ単に、“唯一無二の友人を失い、しかも死に目に会えなかった悲しみ”が転じたものなのかもしれません。
『♪アイ・ラブ・坊っちゃん』〜登世と鏡子の音楽的な統合
最後に、表題歌である『♪アイ・ラブ・坊っちゃん』とそのリプライズについて簡単に触れておきます。
まず、このミュージカルでは兄嫁の登世が漱石の想い人であったという説を採用しています*12。2幕の『♪アイ・ラブ・坊っちゃん』は、彼女が「坊っちゃん」の登場人物たちといっしょに歌い、漱石を励ますナンバーです。セットの中央の高いところからの呼びかけは、まさに天啓のように機能します。
この美しいナンバーは、終盤で、漱石と鏡子のデュエットとしてリプライズされます。初出よりもキーが半音上がって響きが明るくなり(D dur→Es dur)、オーケストレーションもより壮大になります。これが、完全5度が印象的に使用された旋律もあいまって*13、音楽座ミュージカルの特徴といわれる「宇宙につながるような」スケールを生み、深い感動を呼び起こします。
ちなみに、登世が歌ったメロディが、漱石と鏡子によって歌い継がれることには、明確な意図があると思います。それは、百合の花を生けるミザンスの繰り返しにより、登世と鏡子の間で「漱石を支える女性」のイメージが重ねられているからです。『♪アイ・ラブ・坊っちゃん』リプライズは、漱石にとって大切な女性である登世と鏡子を、音楽的に統合するナンバーでもあるのです。
こうしてミュージカルにおける漱石は、さまざまな悩みを抱えながらも、鏡子に支えられて「坊っちゃん」を書きることができました。そして「なぜ生きるかじゃない、いかに生きるかだ*14」という納得に至り、未来を見据え*15、「作家として生きる」という自己実現へと踏み出すことになるのです。
終わりに〜 そして駆け抜けた10年間
「坊っちゃん」を書き上げてから3か月後。漱石は、明治39年7月2日付けの虚子宛ての手紙で「小生は生涯に文章がいくつかけるかそれが楽しみに候」と述べています。このとき漱石、39歳。翌年春に朝日新聞に入社し、念願の職業作家として歩み始めます。
しかしそれからの人生は、わずか10年ほどしかありませんでした。その頃から胃を患っていた漱石は、大正4年12月9日、鏡子と子どもたち、虚子や門下生たちに見守られるなか、重い胃潰瘍によって生涯に幕を下ろします。49歳でした。
それでも、その10年ほどの間に生み出された『夢十夜』『こころ』『道草』などの作品は、教師時代に書かれた『吾輩は猫である』『坊っちゃん』などとともに、令和を迎えた今も読み継がれています(各社で絶版にならずに版を重ねているのって本当にすごいこと)。
ラストシーンで愛する家族とともに“坊っちゃん列車”に乗り込んだ漱石は、「やりたきは創作」という願いを叶え、確かに充実した10年間を駆け抜けたのではないでしょうか。
「この電車は、大正池、昭和橋、平成中学校前経由、令和行きでございます! 発車!!👉️」
なお、正岡子規は34歳で亡くなったため、漱石の文壇での大活躍を知ることはありませんでした。一方で、23歳の頃に座興で漱石の運勢を占った記録が残っており、その内容は「具体的に漱石氏の将来を予言したもの」であったそうです*16。
このとき子規は、自分が占った漱石の将来について「上々大吉なり」と言い、こんな言葉で結んでいます。
「天、君に命ず、君躊躇するなかれ」
子規は、天命をまっとうした漱石を、笑顔で出迎えたのかもしれません。
*
長文におつきあいくださり、ありがとうございました。
これにてミュージカル「アイ・ラブ・坊っちゃん」の考察、完結です!楽しかった〜!(私が)
以下、文献を記しておきます。漱石ミリしらから勉強したので、誤りがあったらご容赦ください。
Part1はこちら↓
引用・参考文献
引用文献
- 夏目鏡子 述,松岡譲 筆録:漱石の思ひ出(岩波書店,1929/復刻版2003)
- 夏目漱石 著:吾輩は猫である(新潮文庫1961,/改版2003)
- 江藤淳 著:漱石とその時代 第3部(新潮社,1993)
- 週間朝日 編:値段の明治大正昭和風俗史・上(朝日新聞社,1987)
- 三好行雄 編:漱石書簡集(岩波文庫,1990)
- 夏目金之助(夏目漱石)著:定本 漱石全集 第17巻(岩波書店,2019)
- 伊藤整 著:日本文壇史 7 硯友社の時代終る(講談社,1995[底本1978])
- 高浜虚子 選:子規句集(岩波文庫,1941/改版1993)
- 和田茂樹 編:漱石・子規往復書簡集(岩波文庫,2002)
- 坪内稔典 著:正岡子規 言葉と生きる(岩波新書,2010)
- 柴田宵曲 著:子規居士の周囲(岩波文庫,2018[底本1943])
参考文献(Part1・2共通)
長期にわたっているのでわけわからなくなりました。一部は省いています
- 江藤淳 著:漱石とその時代 第2部(新潮社,1970)
- 正岡子規 著,正岡忠三郎 編集代表:子規全集 第6巻 短歌 歌会稿(講談社,1977)
- 正岡子規 著,土屋文明 編:子規歌集(岩波文庫,1959/改版1986)
- 関川夏央 著:子規、最後の八年(講談社,2011/文庫2015)
- 伊藤整 著:日本文壇史 3〜8(講談社1995〜1996)※まとめてます
- 関川夏央, 谷口ジロー 著:『坊っちゃん』の時代 谷口ジローコレクション6(双葉社,2021[単行本1987]*17)
- 水川隆夫 著:夏目漱石と戦争(平凡社,2010)
- 蓮實重彦 著:夏目漱石論(福武書店,1988[底本1978])
- 日置俊次:正岡子規論―「瓶にさす藤の花ぶさみじかければ」の歌について―
- 新宿区立漱石山房記念館 編:《通常展》漱石と高浜虚子―「吾輩は猫である」が生まれるまで―図録(2019)
- 新宿区立漱石山房記念館 編:令和7年度《特別展》発表120年記念『吾輩ハ猫デアル』図録(2025)
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#3 「死」について突き詰めて書いた作品——姜尚中さんが読む、夏目漱石『こころ』【NHK100分de名著ブックス一挙公開】 | NHK出版デジタルマガジン - 4ページ
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俳誌「ホトトギス」ホームページ 過去の俳誌より(←ホトトギスのリアルな目次を写真で見られます)
- 根岸「子規庵」ホームページ 正岡子規について | 子規庵
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熊本市西区ホームページ:区の見どころ〈16〉井川淵の家
*1:自分を監視している金田家の差し金と思っていた
*2:モデルとされる歌人はいます。
*3:翻訳:安藤貫一、校閲:夏目金之助。※金之助は漱石の本名
*4:ただし同じ手紙で遅れたのは自分の原稿が遅かったからだよねごめん、的なことも書いています
*5:もっと細かい計算もあって、「1回あたり15円」のときには計算があわないとしています。
*6:藤村操の“後追い自殺”をした女性の目線としている説も見かけたのですが、私があたった文献ではそこまでは確認できませんでした
*7:まさに、襟(カラー)が高い(ハイ)という意味
*8:長年6月とされていたけれど、漱石の出勤簿から5月だと特定し直されたそうです。すごい!
*9:寺田寅彦とともに
*10:写真を見ると「モーーー」くらい伸ばしてあって、苦しい息がそのまま乗っかっているようです
*11:2ページに満たない短いもの
*12:江藤淳が最初に唱えた説に基づく
*13:メロディの特徴については、Xに書いた「完全5度ツリー」をご参照ください
*14:これはニーチェの言葉が元ネタと思われるのだけれどちょっと不完全、ロンドンに留学中に読んでいた本の内容とは一致しない
*15:夜空を見上げる芝居による
*16:子規研究の第一人者であった柴田宵曲、文献11
*17:虚構も交えたフィクションですが、縁側で構想を語るところなどはミュージカルに影響を与えたのでは?と思っています










