このミュージカルについて熱心に考えていると、結局サティーンのことを突き詰めて考えたくなってしまいます。それは本作が文字通り「サティーンという女性の物語」だからなのでしょう。まんまとクリスチャンにそう仕向けられている気がします。
私は昨年、原作映画とミュージカルの比較を通して、サティーン像の明確な違いをとても興味深いと感じました。いくつかあるけれどその1つは、原作映画のサティーン(演:ニコール・キッドマン)が舞台女優になりたいという夢をもっていたことです。
一方、個人としての夢を叶えたがっていた映画のサティーンに対して、ミュージカルのサティーンが「こんな素敵な自分になりたい」というような夢を語ることはありませんでした。すでにトップスターに上り詰めていたから? でも、「嫉妬」するほどその座を欲しているニニと比べると、サティーンは淡々と役割を引き受けているだけのようにも見えます。
では、サティーンが欲していたものはなんだったのでしょうか。
以下、具体的に(そして実験的に)考えていきたいと思います!
◆セリフと歌詞から読み解く
観劇を重ねる中で、ふと気になったのは、サティーンが発する歌詞やセリフの中に“家”にまつわるキーワードが散りばめられていることでした。
これが、結構たくさんあるんです。1つひとつ見ていきましょう。
①安全のための“家”
「素敵なキスも家賃にさえならないし子猫さえ買えない(The Sparkling Diamond)」
Sparkling Diamondで登場し、のちにOnly Girl In A Material Worldで繰り返されるこのフレーズは、素敵なキス(=愛)なんて貰っても一文にもならない、私はダイヤモンド(=お金)だけが欲しいの、という、サティーンの“表向きの価値観”をわかりやすく表現しています。サティーンに言い寄った同じパトロン*1が二度フラれてしまいますが、ここで拒絶されて吹っ飛んでいく赤いバラは、もちろん「愛」の象徴です。
私はこの歌詞が最初に聞き取れたときに、ちょっと唐突に感じました。こんなキラキラしたナンバーの中に、なんで「家賃」が出てくるんだろう?と。
そこで、いったんここでは文字通り、サティーンは実際に家賃を払っている、と考えてみることにします。つまり〈部屋を借りていて、家を所有できるほど裕福ではない〉という解釈です。
「私はもう、路上には戻れない」
上記でサティーンが家賃を払っていると仮定したものの、作中では、サティーンの住む家そのものは描かれませんでした。あの華やかなエレファントルームは、クラブ内の楽屋であって家ではありません。でも、彼女の過去の暮らしぶりについては、ある言葉によって作中で繰り返しほのめかされています。それは、「路上」です。
「路上」「ストリート」という言葉は、もちろん当時のパリに実在していた「街娼」を暗示しているはずです。一方で、Nature Boy前のロートレックの述懐によれば13歳頃のサティーンの境遇はかなり厳しそうで、〈そもそも住むところにも困っていた〉ことも連想させます。サティーンは1幕ラストのElephant Love Medleyで「私はもう、路上には戻れない」とクリスチャンの愛を拒絶しますが、背景には、街娼への転落だけでなく、住処を失いかねない恐怖があるのかもしれません。
「すぐ崩れるトランプのおうち(Firework)」「安全な場所」
そう考えてみると、内省に満ちたFireworkの最後に、「すぐ崩れるトランプのおうち」というフレーズが出てくるのも示唆的です。この「トランプのおうち」は、「まるで私、紙切れみたい」に続くもので、自分自身の寄る辺なさを指したものですが、〈サティーンにとっては「おうち」が“すぐ崩れる”不安定なもの〉であるという見方もできます。
また、2幕のCome What Mayの前にクリスチャンの腕の中で幸せな想像に誘われたサティーンは、「どこか、静かな場所で」に対してはっきりと「安全な場所」と続けます。ハッピーエンドだからどんな明るい夢想だっていいはずで、事実、クリスチャンは「ロートレックおじさんが2人の子供達と遊ぶ」という能天気な想像を披露するのですが*2、そこでもサティーンは「安全」を真っ先に求めているのです。この時点では公爵に関係はバレていないからまだ脅されていないにもかかわらずです。
「素敵なキスは家賃にならない」(Only Girl In A Material World)
ここまで見てきた通り、サティーンが家や安全を欲する気持ちは、かなり切実なものでした。それを踏まえて2幕の展開をみると、シャンゼリゼ通りの邸宅を与えようという公爵の申し出が、どれだけクリティカルなものだったかわかります。
前掲の記事でもちょっと触れているのですが、19世紀末のシャンゼリゼ通りには、実在した高級娼婦、ラ・パイーヴァの邸宅が立っていました(1865年から10年がかりで完成、土地代は2億円)*3。彼女はシャンゼリゼの豪邸に住むという夢を持っており、財を築いてそれを叶えたわけです。ラ・パイーヴァはスーパー高級娼婦だったそうですが、その前例を踏まえると、サティーンがそのようにステップアップすることもあり得なくはない話でした。
上記で見てきたようなサティーンの考え方に照らせば、立派な家をもらえて身分も保証されるなんて、本来ならば嬉しくないはずがなかったのです。サティーンが年齢的な限界も意識していたことからなおさらです。
しかし実際は、公爵のソロの間にサティーンは、邸宅を見つめながらとても複雑な表情*4を見せており、クチュリエたちに着せ替えされる中、公爵に従い続けることへの悲痛な覚悟を歌い上げます。サティーンにとって、“家”はものすごくプライオリティが高いにもかかわらず、それと引き換えに自分の心を殺すことは、やはり辛く苦しいことでした。
②居場所としての“家”
「私たちのホームは誰にも取り上げさせない。ここは安全、約束する」
一方、サティーンにとっての“家”は、自分の身の安全だけを守るものではありませんでした。上述のセリフは、クラブの経営危機について不安を吐露するベイビードールを励ますものですが、サティーンははっきり「私たちのホーム」と言っています。 トップスターでありリーダーであった彼女は、仲間を守ることも同じくらい重要視していたと言えます。サティーンが「公爵を魅了する」という役割を引き受けるのは、それができるのが彼女だけであり、そうしなければ「私たちのホーム」が危機に瀕するとわかっていたからです。
「あの家はいらない。命尽きるまで、私の居場所はここよ」
しかし死期を悟ったサティーンは、公爵の援助を退け、クラブこそが「居場所」であると宣言します。原作映画では仲間の連帯感は希薄であり、上昇志向の強かった映画のサティーンは「こんなところは出るのよ」と言い放っていました。それと比較すると、この「居場所」という言葉は、ミュージカルのサティーンの人物像をはっきり表すセリフのひとつだと言えます。サティーンを中心とするシスターフッドが描き込まれていることは、ミュージカル版の特徴であり、魅力でもありました。
以上をざっくりまとめると、サティーンが発するセリフ/歌詞の“家”には、「安全のための家」と「仲間と過ごす居場所」の、大きく2つの方向性があると言えそうです。
◆マズローの欲求階層論から読み解く
①サティーンについて
安全な家へのこだわり〜「安全の欲求」
さて、どうして私がこんなに”家”のキーワードが気になったかというと、観劇を重ねたあるタイミングで「これ、“安全の欲求”じゃん」と思ったからです。
これは、よく知られた「マズローの欲求階層論」に登場する概念です。人間のもつ基本的な欲求について、「優先順に並んだ欲求において、低次の欲求が満たされると、より高次の欲求が現れる」*5という考え方で、「安全の欲求」は、下から2番目にあたる欲求です。人間として最優先の「生理的欲求」を満たした上で現れるものとされ、マズローは、この論を著した『改訂新版 人間性の心理学 モチベーションとパーソナリティ』(小口忠彦訳,産業能率大学出版部,1987*6)の中で、「安全、安定、依存、保護、恐怖・不安・混乱からの自由、構造・秩序・法・制限を求める欲求、保護の強固さなど」*7と例示しています。
ちなみに、下図の有名なピラミッドはマズロー本人が描いたものではないらしいのですが(知らなかった!*8)、やっぱりわかりやすくて便利だから本記事でも活用します。
出典:イラストAC(ID 1924416)
ようやく得た家族愛と、諦めていた恋愛〜「所属と愛の欲求」
サティーンの「安全のための家」への切実な思いを、ここではいったん「安全の欲求」に当てはまると考えてみましょう。欲求階層論において、「安全の欲求」の次に現れるのは「所属と愛の欲求」です。マズローはここで欲するものを「人々との愛情に満ちた関係」「所属する集団や家族においての位置」*9といった言葉で説明しています。
前パートでは、サティーンのセリフのうち「私たちのホーム」「私の居場所はここよ」という表現をピックアップしましたが、他には「彼らは唯一の家族なの!」というセリフも出てきます。父親からひどい扱いを受けていた彼女は、ムーラン・ルージュの仲間こそ家族だと思い、その集団に属していることを大切にしていました。まさに「所属と愛の欲求」だと言えます。サティーンが「安全のための家」にこだわっていることを踏まえると、サティーンは、「安全の欲求」がギリギリ満たされた上で、「所属と愛の欲求」に手を伸ばしている、と仮定することができそうです。
マズローの自著(前掲書)ではこの項目の記述はちょっとわかりにくいのですが、一読してみた感じでは、家族や集団における愛と、いわゆる恋愛については区別をしていないように読み取れました(違ったらすみません)。「愛とは、性と同義語ではない」*10とも述べています。家族愛と恋愛が同じ箱に入っていると考えると、サティーンは、現時点で得られている家族愛を大切にしつつ、ビジネスではない本物の男女の愛も、心の底では欲していたはずです。ELMの前に「愛はいらない」と切なげに歌い上げるのは、本当は愛し愛されたいという本心の現れです。マズローは「所属と愛の欲求」の説明を、「また愛の欲求は、与える愛と受ける愛の両方を含むという事実も見落としてはならない」*11と結んでいますが、ELMでクリスチャンが繰り返し「愛し合おう」と訴えるのは、そこにぴったりと当てはまるように思います。
サティーンの欲求は、せいぜい“ここまで”だった?
以上を整理すると、サティーンは、「所属と愛の欲求」がある程度満たされているものの、ともすれば「安全の欲求」が脅かされる状況に瀕しているといえます。そして、これを守るためにはお金が必要だと理解しており、だから「素敵なキスも家賃にならない」という歌詞は、ある意味、本質を突くものでした。
ちなみに、欲求階層説ではこれらの上に「承認の欲求」「自己実現の欲求」が現れます。「承認の欲求」は「安定したしっかりした根拠をもつ自己に対する高い評価、自己尊敬、あるいは自尊心、他者からの承認などに対する欲求・願望」*12であり、「自己実現の欲求」は「自分がなりうるものにならなければならない」*13という欲求です。
冒頭で述べたように、サティーンはナンバーワンの地位を淡々と受け入れていて、映画のサティーンのように「舞台女優になる」という夢も持ちあわせていませんでした。性格的なものもあるはずですが、「承認の欲求」「自己実現の欲求」にあたるものは、作中にはほとんど描かれていないように見えます。マズローの説、つまり欲求は下から順に満たされていくという原則に照らすと、サティーンは「所属と愛の欲求」で手一杯で、これらに到達する位置にはいなかったのかもしれません*14。それはもちろん、彼女の悲しい生い立ちに由来するのです。
②クリスチャンについて
日本初演の芳雄クリスチャンと甲斐クリスチャン(しょまスチャン!)🎼
衣食住に困ったことは多分ない〜「自己実現の欲求」
ここで、サティーンと愛し合うことになるクリスチャンにもちょっとだけ焦点を当ててみます。これまで見てきた「マズローの欲求階層論」を念頭にセリフや歌詞を思い出してみると、クリスチャンは最も高次の「自己実現の欲求」を持っていることがわかります。モンマルトルを目指した理由がまさにそれで、サティーンには「立派な作曲家になる」という夢を語ります。個人的に大好きなBurning Down The House(Welcome to the Moulin Rougeのラスト)の歌い出しは「♪いま何者でもない 僕らが立ち上がるとき」です。“いまは何者でもないけれど、何かを成し遂げてやろう”というボヘミアンズの若い躍動が歌われます。
そもそも「アメリカでの息詰まる生活から抜け出したかった」という動機は、安全な家に住めるかどうかの瀬戸際を通ってきたサティーンを思うと、ずいぶん恵まれた人だなぁ…という気がします。サティーンが「私はただのファンタジー」「パリの売春婦のことは忘れて」と拒絶するのも頷けます。クリスチャンはサティーンの舞台に圧倒され「僕とは格が違いすぎるよ」と言いますが、サティーンから見ても、クリスチャンは「見てきた世界があまりにも違う」存在だったのかもしれません(あまり適切な表現じゃないかもしれないけれど、言ってしまえばクリスチャンは、実家が太い)。
クリスチャンの歌詞にも登場する“家”
ちなみに、サティーンの歌詞にたくさん出てきた“家”は、クリスチャンの歌詞にも出てきます。もうおわかりだと思いますが、Your Songの「♪稼ぎもないのに夢見てる 君と住む家が欲しいんだ」です。これはもちろん、公爵がサティーンにあてがおうとした、シャンゼリゼ通りの邸宅と対になるものです。本作では対比構造がたくさん登場しますが、ここでは、「お金はないけど、一緒に住む家が欲しい」vs「お金はあるので家を与えるが、一緒には住まない」というクリスチャンと公爵の完璧な対比を見ることができます。2人の違いを、サティーンにとって重要な“家”を使って際立たせているのもポイントです。
なお、クリスチャンが「金がない」のは、自分探しのためにパリに来て自らボヘミアンズになり「最高に輝かしい貧乏生活」を選び取ったからです。サティーンの生まれついての貧困とはまったく性質が異なることに注意しなければなりません。
以上、サティーンの望みについて、一部はクリスチャンと比較しながら「マズローの欲求階層論」に当てはめるという試みをしてみました。改めて浮き彫りになるのは、サティーンとクリスチャンの境遇の違いです。生まれた国、年齢、育った環境…全く異なるバックグラウンドをもつ2人だからこそ、そこに通い合う愛は尊いのだと思います。
まとめ:サティーンが最期に望んだものとは
物語の終盤では、サティーンの病が進行する中、みんなで作り上げたショーも初日の夜を迎えます。サティーンが最期に欲したのは、仲間といっしょに舞台に立って、クリスチャンの曲を観客に届けることでした。「クリスチャンの音楽を世界に聞かせなくちゃ」。このとき彼女はクリスチャンに嘘をついて突き放した後で、「愛し愛された日々」は、もう過去のものになっていました。それでも命を削って舞台に立ったのはなぜなのか。
それは、サティーン自身がクリスチャンを愛する以上に、「クリスチャンの音楽」を心から素晴らしいと思っていたからではないでしょうか。ロートレックを筆頭にボヘミアンズと長い間を過ごしてきた彼女は、芸術の真の理解者でもありました。
先に引用した通り、マズローは「自己実現の欲求」について「自分がなりうるものにならなければならない」とシンプルに表現していました。だとするなら、人生の最期に芸術の“よりしろ”となることは、究極の自己実現の形なのかもしれません。
「でも、あなたの音楽をみんなに届けられた」「クリスチャン、あなたはやりとげた」。泣き崩れるクリスチャンに語りかけるサティーンがどこか満足気なのも、彼女自身が命を使い切って音楽を届けて、まさに「やりとげた」からだと思います。
リーダーシップ、優しさ、利他の心、そして芸術への愛。逆境を乗り越えて輝くダイヤモンドになったサティーンのことを考えると、いくらでも美点を見出すことができます。
ブランコで舞台に降り立ち、仲間のリフトによって天に召された彼女は、やはり完璧なスターで、ファンタジーで、偶像でした。その輝きは、クリスチャンの心に、そして私たち観客の心に、いつまでも残り続けるのです。
――そう、「これは、サティーンという女性の物語」。
参考文献
- 鹿島茂『パリ、娼婦の街 シャン=ゼリゼ』(KADOKAWA,2013)※kindle版
- 中野明『マズロー心理学入門:人間性心理学の源流を求めて』(FLOW EPUBLICATION,2016)※kindle版
- A.H.マズロー著、小口忠彦訳『改訂新版 人間性の心理学 モチベーションとパーソナリティ』(産業能率大学出版部,1987)
(いいわけ&おまけ)
- この文章は実験的に書いてみたものですが、登場人物の考え方が、ぜんぶ欲求階層論に当てはまるかといえば、やはり、そんなわけはないはずで…。映画のサティーンはいろいろ満ち足りていないのに「舞台女優になる」という夢を抱いているし、ミュージカルのサティーンのほうも、最期の望みを「自己実現の欲求」と仮定すると、その手前の「承認の欲求」をすっ飛ばしたことになってしまいます。が、ここは、マズロー本人が、この順番は絶対じゃないよ!というように書いているということで*15、お茶を濁しておきたいと思います…!(ええんかい!)
- あと、まったく関係ないんですが、この記事の仕上げに取り掛かろうとしていたところで家族が緊急手術を受ける知らせが舞い込み、「思ったとおりの記事を書き上げたい」という私の欲求は秒で吹っ飛びました。ミュージカルや芳雄さん関連の情報もまったく頭に入らなくなりました。今はバタバタも落ち着き、本人も大事なくて本当によかったのですが、改めて、欲求階層論の上のほうでウロウロできるって幸せなことなのだなと痛感しました。
▼考察&自由研究シリーズ(ミュージカル作品にハマると、錬成しがち)
*1:乾直樹さん!渋かっこよかった♡
*2:このあたりクリスチャンは本当に能天気で幼いよね!と思う!
*3:文献1 no1734
*4:帝劇公演中盤くらいのあーやサティーンは、終盤に比べるとほんの少し困惑の中に嬉しさも垣間見せていたと思う。すごく複雑なお芝居だった
*5:文献2 no542
*6:1971年の書籍の改訂版
*7:文献3 P61
*8:文献2 no699「ただしこの5段階欲求のピラミッドもマズローが考案したものではありません」→誰なんだろう!?
*9:文献3 P68
*10:文献3 P70
*11:文献3 P70
*12:文献3 P70
*13:文献3 P72