完全に猫なのさ

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ミュージカル「マリー・キュリー」感想〜ピッチブレンドから取り出されたものは何か(2023年3月21日・天王洲銀河劇場)

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すごく遅くなりましたが、この春話題になったミュージカル「マリー・キュリー」を3/21に観劇しましたので、感想を残しておきます!

 

 

見に行こうと思った理由

シンプルにこんな感じです!

  1. 愛希れいかさんの主演作だから
  2. とても評判がよかったから
  3. 上山さんがナイフを隠し持っていないか心配だったから

博多座で観てきたエリザベートの熱が残っており、そんななかで稽古場映像が公開されたりして「ちゃぴさんの歌、うまいなぁ、また聴きたいな〜〜」と素直に思ったんですよね。あとやっぱりエリザでルキーニを演じた上山竜治さんが相手役だったのでピエールがマリーを刺さないかどうか心配で…!(どんな崩壊脚本だよ)

評判が良かったことについてはさんざん語られているので割愛しますが、当時わたしは別演目に通っており(ジェーン・エア)、難しいかなと思いつつも行けそうな日を確認。妹と話していたらもう取っていたので(!)、せっかくだから同じ日に、と思って21日を選んだら隣の席でした。どういうこと?

ちなみに、観劇前に私の持っていたマリー・キュリーの知識は、いわゆる「キュリー夫人」の学習まんがレベルでした。学習まんがで覚えたことのうち「ポロニウムラジウム、本名はマリア」だけ思い出して、特に予習はせずに天王洲に赴きました。

 

観劇中の体験〜2幕、自分の身に起こったこと

ピエールの亡霊との対話

実は正直なところ、1幕の間はどこか「居心地の悪さ」を感じていました。ここは1か月以上たってもなかなか言語化できないのですけれど、まずは雑に脇によけておきましょう。よいしょっと。

そんな中迎えた2幕。シリアスな展開にどんどん引き込まれていって、集中力がピンと張り詰めるなか、迎えたのがピエールの死を描くシーンです。「馬車の事故でお亡くなりになりました」という知らせを経て、研究室でピエールの亡霊と出会うマリー。冒頭で「ピエール」と呼びかける声の“若さ”で、つまりここは夢と現の境目なのだと観客は瞬時に理解します。

そこからの、マリーとピエールが紡いだ夫婦の対話が、間違いなくこの演目の白眉でした。時間がたってお恥ずかしいことに具体的な台詞が1つも思い出せないのですが、それは逆にそのときの自分の体験が強烈すぎるということの証左でもあるような気がします。私の涙腺は完全に焼き切られており、1秒1秒お芝居を浴びながら、いかに、啜り上げないか、嗚咽を漏らさないか、という自分の情動と身体を制御する戦いをしていました。

みんなで嗚咽を押し殺した時間

湿りゆくマスクもそのままで、ハンカチで拭うこともできず、涙を垂れ流しながら必死で呼吸器をコントロールして、ちゃぴさんと上山さんのお芝居を見つめ続けました。記しておきたいのは、この状態にあったのが、たぶん私だけじゃなかったということ。何分くらいなのだろう、あのシーンの間、みんな同じくらい嗚咽を押し殺していたのが座席にいてわかったのです*1。それは「会話だけの繊細なお芝居だったから」と言ってしまえばそうなのですが、あの集団としての集中力の只中にいられたことは、観客として幸せだったのかもしれません。最近読んだ本*2で覚えた言葉だと「集合的感情」の1つがこれなのだろうなと思ったりしました。

1幕で2人が歌い上げた「♪予測不能で未知なるもの」は、歌詞そのものは科学者の探究心を表していますが、本質は現代的なパートナーシップの讃歌でした。お互いを尊敬しながら、同じ方向を向いて(=机を並べている)、手を取り合えることの奇跡。芝居としてのリプライズがあのシーンで、だからとにかく、私はひたすら悲しくて泣いたのだと思います。*3

舞台セットが比較的簡素だったからこそ、ソースも何もかけない牛肉100%ハンバーグのようなものを味わったような感覚でした。身体と感情を盆に乗せて差し出すこと、もしかしたらそれには「芝居」って名前がついているのかも、と改めて思ったりしました。

 

本作が“抽出”したものとは

「ファクション」とはなんぞや

観に行くまで気になっていたのは、本作がFactとFictionを織り交ぜた「ファクション」であるとはっきり謳われていたことです。実在の女性をタイトルに掲げた作品ではそれこそ「エリザベート」があり、それにもかなりの虚構が入っているけれど、どう違うのかな?と。

観終わったあと、史実についてもネットで調べてみたりして、「どこがどのように違うか」はなんとなく理解できました。一番大きい点は、ラジウム放射性物質の危険性を本人が認めていなかったことでしょう。ここに大きく関与してくるのが、フィクションの登場人物であるアンヌとルーベンです。

 

フィクションの登場人物が担った役割〜アンヌとルーベン

例えば汽車の中で偶然出会い無二の友となったアンヌ(清水くるみ)は、ポーランド人かつ女性である「もう一人のマリー」として過酷な運命に身を晒し、マリーと共鳴し続けます。ひとことで言えばシスターフッド担当で、放射線に侵された身を投げ出すように歌う「♪あなたは私の星」は、女性どうしのデュエットとして語り継ぎたいナンバーでした。なお、前述の汽車でのナンバー「♪すべてのものの地図」は本作でマリーが挑戦することがぜんぶ宣言されているようなもので(誰にも呼ばれてない名もなき者=発見すべき新元素&マイノリティとしての自分*4)、アンヌはそれを受け止める役目も果たしています。

一方、ルーベン(屋良朝幸)は利己的な資本主義の体現者かつ「プロメテウスの火」に魅入られた夢追い人であり、後半ではラジウム健康被害を無視&放置します。狂言回し的ポジションでありながら絶妙にストーリーに埋め込まれており、上山さんがパンフで言及した「異化効果」に寄与していました*5。ルーベンによって異化されることで、観客はどこか冷静な見方、つまりラジウムって本当に大丈夫?やばくない?」みたいな気持ちを持ち続けることになります。そして当然、苦しむ工員を見捨てる彼の存在は、マリーがラジウムの危険性を訴える本作の特徴のために必要でした。

このように、フィクションとして配された登場人物に注目することで、本作に込められたメッセージが見えてきます。マリーがありとあらゆる「女性初」を成し遂げたことやフランスのアカデミーに冷遇されたことなどは本当でした。だからこそ、虚構であるアンヌとルーベンとのかかわりを通して、女性と連帯しラジウムについて責任を果たそうとする姿を「あり得たかもしれない」と提示することができたのではないでしょうか(演出の鈴木裕美さんのツイートによれば「『もしマリーがフランスへの汽車の中でアンヌに出会い友達になっていたら、彼女の人生はこう変わっていたかもしれない』というifモノ」)。最後、“実在した”娘のイレーヌの語りで“本物の”プチ・キュリー号の写真を添えてマリー本人に回帰させることで、「ファクション」は静かに幕を閉じるのです*6

「私が誰かではなく、私が何をしたかを見てください」。1人の女性の生き方をパワフルかつエモーショナルに描く脚本は、きっと『82年生まれ、キム・ジヨン』を生んだ現代の韓国ならではのものでしょう。私たちに差し出されたのは、「キュリー夫人」の偉人伝ではなく、何トンものピッチブレンドから抽出されたマリー・キュリーという女性像だったのだと思います。

 

その他の感想

愛希れいかという俳優

  • ちゃぴさんの声帯取り替え術が炸裂していました!冒頭の第一声で老年期であることが瞬時にわかるし、前述のように突然若返ることもできる。この時空の操り方、まさにノーベル物理学賞レベル。
  • つねに5°くらい前のめりでツカツカ歩く若き日のマリーの造形がすごくチャーミング。科学オタクの早口講釈、難解な数式の板書をひとつも間違えずにこなす力量よ…。
  • 1幕ラストのナンバー「私だーーーー」って伸ばす高音のロングトーンがありましたけれど、あれって(エリザの「♪私だけに」の)「私にーーーー」と同じ音だったりしません?チケットを買い求めたときの期待通り、やっぱりちゃぴさんなら間違いないって思えた体験でした。
  • カーテンコールではすらりとした長身を真っ二つに折る深いお辞儀。少し前に見た優美な皇妃のレヴェランスとはまったく異なる、科学者としてのきっぱりとした一礼でした。

居心地の悪さの正体

  • 居心地の悪さを飛び越えてついには拒否感まで抱いたのは(実験用の)ネズミのナンバーでした。でもそれはネズミ=工員という図式からいって、狙い通りだったのだと思います。完全に術中にハマってたわ。
  • 理由の1つは、「♪ラジウム・パラダイス」の浮かれ騒ぎや、工員が筆をなめて尖らせるところなどに対して、潜在意識下で「いやそれやばいよ、やばいって〜〜」みたいな思いを抱いていたせいかなと思っています。
  • あとは単純に韓国ミュージカルを見慣れてないというのは絶対にあったよね。*7もう1回観に行けていたら作品世界に対してもう一歩踏み込んで咀嚼できただろうなぁとも思います*8*9

その他メモ〜「ダンスのえぐい人」、オケの特徴、上山さんのこと(3/21のカテコ)

  • 聖司朗さんがルーベンの部下として登場したとき(ルーベンの後ろで論文を受け取る係)、あっこの人きっとダンスのえぐい人だ!と咄嗟に思ったのですが、後のシーンでその直感が正しかったことがわかり、うれしかったです。彼のダンスもまた、予測不能で未知なるものでした…!
  • オケは、パーカッションの使い方が印象的でした。「♪ブラック・ミス・ポーランド」のウッドブロックにはホモソのからかいの雰囲気を、「♪ラジウム」のスネアドラムには男性に負けない偉業のイメージを感じます。あとラジウムを抽出するシーンの「ドォン」は地鳴りレベルだったので客席でビクッ!ってなってました。あれはバスドラムなのかな?
  • そして、上山さん。理解と包容力のピエール・上山・キュリー、最高でした!出会いのシーンの再現やイレーヌへの誕生日プレゼントのくだり(なんちゃらの放物線)など、コミカル担当だったことも見逃せません。あと、ナイフ持ってなくてよかった!
  • 3月21日のカーテンコールにて。鳴り止まない拍手に応えて三たび登場し「よっ…呼んでもらえると思わなくて!!」と感極まるちゃぴさん、衣装を脱いでしまって出てこない上山氏。それくらい「呼んでもらえると思わなくて」の出来事だったのですね。ネクタイを締めながら姿を現した上山さんに総ツッコミのみなさんが素敵でした。あとでパンフを読んだらキャスト座談会で上山さんが自身について「舞台に立つまでが事故の嵐なんですよ」と言っていてちょっとフラグじゃんと思いました。笑

 

 

大阪の千秋楽にも間に合わなかったのですが、以上、私なりの感想でした。今思ってることは私自身の経験・勉強不足ですかね〜😭おおん。

でも知らないことを知れるって楽しいよね。マリーの好奇心を素敵だと思うから、少しずつ世界を広げていこうと思います。♪この心、燃え上がる〜〜!*10

 

 

*1:音楽が始まってからみんなそろそろとマスクの下をハンカチで拭い始めた

*2:野村亮太『舞台と客席の近接学 ライブを支配する距離の法則』(dZERO,2021)。

*3:メモ:後述する「異化」に対しては、このシーンではゴリゴリの「同化」が起こっていたのではなかろうか?→もうちょっと勉強します。

*4:あの時点でマリーに「新しい元素見つけるぞォ〜!」って歌わせるのがマジで劇的すぎる件

*5:ブレヒトの提唱した「異化効果」についてはパンフで知り、その後自分なりに勉強してちょっと理解できたような、というところです。ルーベンは、エリザのルキーニほどは観客に話しかけない。マリーと同じ位相の人物としてストーリーに埋め込まれているからこそ、ちょっと気持ち悪くて異物感があったんだなと今気づきました。冒頭ずーーっとセットの2階から見下ろしてて本当に「何なん?」感があった

*6:うろ覚えすぎて、、イレーヌの語りじゃなかったらすみません

*7:なお、死因を梅毒と偽装されていたことに対して工員たちが憤りをぶつける歌詞「やりまくって死んだだなんて!」は、性感染症に対する表現としてはちょっと偏見が強すぎやしないかと気になりました。

*8:パンフにキャストさんによる「2回観てほしい」というような発言が2回出てきて、その点ではちょっとしょげました。当時はプレイハウスに通っていたからどうしてもそこは捻出できなかったのよ…しゅん。この記事が1回観たうえでの限界だけど、演目との一期一会もまた良しですよね

*9:あとこれとは別に、私は今後も「キャストで見に行く客」ではあるだろうから、あんまりいいお客さんじゃないのかな…と思ったり

*10:ということで夏〜秋の演目に備えてミュージカルや演劇の本を読んでいます、、→ミッチーさんのツアーが始まったら本当に時間がとれないので今のうちに!